ガラスが持つ光と、深い力

ガラスという素材を、
私は長い時間扱ってきました。

それでも、
ガラスを「理解した」と思ったことは
一度もありません。

むしろ、
分かろうとすると、
遠ざかっていくような素材だと感じています。

だから私は、
説明するよりも、
向き合い続けることを選んできました。


色を入れる瞬間は、考えない

私が色を入れるとき、
ほとんど考えていません。

透明な板ガラスを
一枚のキャンバスのように感じて、
そこに絵を描くように、
思いのまま色を入れていきます。

「合っているかどうか」を
確かめながら進めることは、
ほとんどありません。

その瞬間に浮かんだ色を、
そのまま信じる。

外してやり直すことも、
ほぼしません。

一度置いた色は、
そのときの私の感覚そのものだからです。

この時間は、
技法というよりも、
私の命のあり方に近いものです。


 焼成は、私の手を離れる時間

一方で、
焼成の時間はまったく違います。

窯の温度、
ガラスの重なり、
内部の応力、
焼成中に起こる割れや歪み。

そこには、
私の技術が及ぶ部分もありますが、
同時に、
どうしても制御できない領域があります。

焼成は、
私の手を離れる時間。

だからこそ、
失敗も起こります。

割れてしまったり、
思っていた表情と
まったく違う結果になったり。

これは、
私の弱さが表に出る時間でもあります。


 失敗は、表現に変わる

けれど不思議なことに、
焼成で起きた失敗の中に、
思いがけず
美しい表情が生まれることがあります。

「割れてしまった」
はずのガラスが、
これまで見たことのない
奥行きや緊張感を持っていたり。

「これは使えない」と
思ったものが、
後になって
忘れられない表現として
心に残ったり。

そうした経験が、
私の中に
静かに積み重なっていきました。


 失敗の記憶が、次の扉になる

コンペなどで
テーマが与えられたとき、
私はときどき、
過去の焼成の記憶を思い出します。

「あのとき、
こんな色の入れ方をしたら
割れたけれど、
あの表情は、
このテーマに近いかもしれない」

そう思って、
もう一度、同じやり方に挑戦する
ことがあります。

それは、
成功の再現ではなく、
失敗にもう一度、
向き合うという選択です。

結果は、
同じにはなりません。

でも、
そこからしか生まれない表現が
確かにあります。


 技術と直感のあいだで

私のガラスは、
計算だけで作られているわけでも、
感覚だけで成り立っているわけでもありません。

色を入れる瞬間は、
直感にすべてを委ね、

焼成の時間では、
自分の弱さや技術と向き合う。

この二つの間を、
行き来しながら、
作品は生まれています。

ガラスが持つ深さは、
その両方が重なったところに
現れるのだと思います。


光は、人の内側に寄り添う

完成したガラスを
誰かが身につけたとき、
私はいつも思います。

光っているのは、
ガラスではなく、
その人の内側なのだと。

ガラスは、
ただそれを
映しているだけ。

だから、
身につけて初めて
完成するのだと思っています。


 最後に

ガラスは、
私にとって
思い通りになる素材ではありません。

でもだからこそ、
離れられない。

直感と、
失敗と、
技術と、
弱さと。

そのすべてを含んだところに、
ガラスの光があると
感じているからです。

あなたの中にも、
きっと、
言葉にできない光があります。

もしその光が、
comb de shio のガラスを通して
そっと現れる瞬間があれば――
それが、
私のよろこびです。

今日もご覧いただきありがとうございます。

【第4回】comb de shio の哲学「おしゃれ心」